「担当」論争って好き

「担当」とは、と考えるのがはてなさんで流行っているそうな。



「担当」ということを考える時に思うことは10年近く変わりません。

「担当だと思ったらそれが担当!」これに尽きます。
こういう回答はずるいのだと思いますが。

数年前に「エイターとは」って考えるのが流行ったとおもうのですが、
これも同じく「自分で自分のことをエイターって思うならあなたはエイター!」というのが私の考えでした。



どういう状態のことを担当と言うのか。
それをたった一人と決めなければという風習もあるでしょうが、どうしても一人に選べないというのもあるでしょうし。
考えてみれば「愛」や「恋」でさえ、人類が数千年かけて考えてきたテーマなんですよ。
どういう状態をそう呼ぶのか。
なんだかね。
答えを見つけてから、それに当てはまる人を探すだとか。
それを「考える」のってとても不毛だし、何もおもしろくない。


彼は私の自担!と掲げて、
じゃあ、担当の定義とは?って考える方がよっぽどかわいい。

言葉のままだと思うのです。
「担当したい!」って。担いたい(にないたい)!っていうこと。
好きっていうだけじゃないですよ、担うんだから、担ぎたい(かつぎたい)っていうことですから。




担当ってなんだろう?って考えて、
じゃあ、その定義に当てはまる彼が私の担当だ!って思うジャニヲタなんてどれだけいるんでしょうね。
そうじゃないでしょう。
担当っていう言葉が何を指すのかわからぬまま、
「私の自担は彼です!」って口に出さすにいられない。きっとそういうもの。

そしてね、後で悩めはいいと思います。
みんなそうだからこういう事が議論に上がるんだろうなって思うけど。




これが担当という定義。だから彼がいい、じゃなくて。
彼!と思った後に理由を探す。
そしてそうしている内のどんどん愛が募っちゃう。
答えが見つからないからこそ、感情が募る。

そもそもは彼の顔に惹かれたけれど、
そういう上辺のものを愛してるかもしれない私が、彼を担当を指していいのかな。とか。
そんなことを考えてるヲタは絶対すごくかわいい。



「担当とはなにか」はさして重要じゃない。
だってそんな答えは、ジャニヲタの数だけあるのだから。

それより、彼を担当と掲げた、その勢いと覚悟の方がよっぽど尊いし大切。




酔っ払いはそんなことを思います。