距離?
前のブログから転載
2011年3月31日
すっごい色気のない話。
引く・・・笑
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最近思ったこと。
震災とはあまり関係はありません。
すげー長くなっちゃいました。
面白くない話題なのでスルーしてください\(^o^)/
自分用のメモ!
えっと。
なんでもそうだけれど、「近く」にいきすぎてはいけないなってことを最近よく思います。
遠すぎても見えないけれど、
近すぎるともっと見えないことがある。
たった一つのものだけ見てると、
知らぬ間に自分の中にそれを占める割合が大きくなる。
考えている時間や見ている時間が増えると、より自分はそのものがわかっているような気になる。
物事を考えるときに必要なのはその考える事、たった一つであると勘違いしがちだけど、
きっとそうではないんだなって思う。
自分はどういう人間だろうって考えたりするとして、
その時、多分「私」という者に目を向けがちだけどきっとそれは正しい方法ではなくて、
むしろ自分以外のもの、他人の言動なんかを見て
「私にはそんな事は出来ないなぁ」とか「自分はそうは思わないなぁ」とか
そういう事を発見することで、結果自分が見えてきたりするんじゃないかと思う。
というかどうやったって他人の存在なしに自分の存在を際立たせることは無理で、
比較なしには自分という存在を見つけることは多分出来ない。
だから開き直って、他者に思いっきり目をむけるってすごく大事な事なんじゃないだろうか。
どちらが秀でている、劣っているという観点ではなくて、
ただ単にその差異を見つけるための比較。
これはさっきも言ったけど案外知らぬ間にしていることだとは思うけど、
なんかもっと技術的にそういうのを身につけたい。
えと。
最近思ったことは、やっぱり私にはもっと広い見識が必要だなぁってこと。
昨日「見識」ってどんな漢字だった思い出せなくて夜中に辞書をひいたんですけど←おバカ(*´Д`*)
例えばどんな時でも冷静な判断力って必要だと思うんです。
あとは何を見るにも多様な感性が必要だと思います。
逆にすぐに身を転じられる柔軟性もきっと必要。
あー、そういえば「〜〜力」っていう本ちょっと前にいっぱい出ましたよね。
うーんと、そういう「力」はもちろん必要なのですが、多分それだけれもいけない。
何を判断するのか、その材料がないと判断も出来ない訳で
つまりその選択肢は自分の中にないと判断も選択も出来ない訳で。
柔軟的に物事を見るにしてもやはりその点では同じで。
感性となると知識なんかとは関係ないようだけど、私はそうではないと思っています。
理屈なしにいい!ってものはもちろんたくさんあるのだけれど、
いいものをよりよく感じられるのは知識や判断力があってこそなのかな、と。
この話は長くなりそうなので簡単にしか言いませんけど。
イメージですが、「頭のいい人」は頭の中にある引き出しの中から
適正な時に適正なものを引き出せる人、という考えを割りとずっと持っています。
で、
昔はその力のある人の事をが頭のいい人だと思っていたのですが、
その引き出し自体が大きく立派である事も
で、その中に何が入ってるかって事もすごく大事なんだろうなぁ、と。
そんな事を最近思うようになった。
この情報化社会です。
インターネット他、多くツールや方法を使えば知りたいことは何でも知れる。
多分以前はとにかく知識を詰め込むことを要求されていたのだと思う。
「教育」の大部分は記憶にあると言っても過言ではなかった。
もちろんその風潮は今もありますよね。
そしてそれがある種の危険性を孕んでいる事は言うまでもありません。
だけど、詰め込み教育が全く意味がないか、知識を積もうとすることがいけないかというとそれも違うはず。とか。
私は高校生の頃、とにかくこの記憶というのが苦手だったので
「大事な事はそんな事ちゃうわ!」と言い張っていたし、
そういう事を結構本当に思ってたんですよね。
で、最近大学を卒業いたしまして。
いまさらながらに、何かを学ぶ・知ることって大事だなぁと思うようになりました。
んーと、もちろんただただ何でも覚えたらいいという訳ではないし、
やっぱりネットとか使えるものは何でも使ったらいいですし、
必要なのは情報に振り回されない力だったり、
情報をどう処理・整理するのかというの能力であったり。
判断力、決断力、〜〜力、がますはす必要となる世の中になるのは間違いないのかな、と感じています。
この辺り、日本人は特に弱いみたいだから
ますますその重要性は説かれていくんじゃないかとも思う。
しかしやっぱり知識ありきだなって思う。
まず何でもそうですが〜〜力の訓練のためには
自分の中で知識を入れて、その中で摩擦を起こすという事が必要じゃないか、とも思いますし。
やっぱり何も知らないままではダメで。
知識は絶対的に必要で、
(知識と一概に言ってしまうのもちょっと違う気がしますが一応便利上「知識」とします)
なんせ自分の中に何もないと判断力を使うことすらも出来ないんじゃないか、と思うんですよね。
仕組みや方法は絶対に必要で、人間で言う「能力」というのはすごく大事で。
だけどそればっかりに目をやりすぎるのも多分ダメだなぁと。
特に私は〜〜力ばっかり身につけたいって思ってたから、
それはそれで大事だけど、それだけでもないという事を改めて感じています。
(ほら、やっぱり「具体的」に弱い人間@おれ)
あー、話がごちゃごちゃして来ましたね笑
私は即物的な上に面倒くさがりな人間だから余計にそうなんですけど、
もっと色んなことを知らなきゃいけないし、
もっともっと積極的に遠回りをしなくちゃいけないなって。
そんな事を思います。
何度も言ってるように、
方法論はすごく大事で自分の引き出しの中にはノウハウを突っ込んどくのも多分大事で、
そういうものをいかに応用できるのかという事は絶対的に必要な能力だと思います。
で、
知識を何でも入れておけばいいかっていうとそうでもなくて、
何を残すか、何を捨てるかという技術も身につけたいという気持ちも強いです。
特に私みたいなアホの子にはそんないっぱい詰め込めないのもわかっているので、
忘れる・整理して大事な事だけ残すみたいな力も絶対に必要なんですけども。
例えば自分はどんな人間かって考えてみて、
自分の身長を測ってみたとして「あ、160センチ」だと知ったとして。
「で?」という感じでですよね笑
でも、例えば日本人女性の平均身長がいくらか、と知っていれば
自分は背が高いのか低いのかという事がわかるようになりますよね。
何でもそうですけど距離が近いことが必ずしもいい事ではない。
少し遠めから客観的に物事を見る。
もっと言えば全然違うものを見る。
もっともっと言えば普段からたくさんの物を見ておく、知っておく。
たくさんの物っていうのはたくさんのジャンルについてという意味でもあるし、
一つのジャンルの中で知識を多くするという意味でも。
顕微鏡とか双眼鏡でもいいんですけど、
その使い方やピントの合わせ方を知っておくことは必要で、
(そしてそれを立派により使い勝手のいい物にする事も必要か><)
でも、例えば何かをよりよく見たいって思った時に
それをどんだけ綺麗に見ることが出来たとしても
自分の中に知識(この場合は比較対象としての、ですね)がなければ
見た→こんな形でした、で終わってしまう。
もっともっとそれを知りたいとしても、
よりよくピントを合わせようとするのは行動としては間違っている。
なんかつまらない話をすみません笑
ずっと一つの事と対峙する事の距離感みたいなことを考えてました。
人間関係でもそうなんですけど、
単純に距離を縮めることだけ大事だとは思いません。
人間関係で言うとそれが親密になる事だとは思っていません。
まぁ、タメ口で話すこと=仲良くなることだとは思わないのだけど、
そういう空気感で結果仲良くなるという事はあると思うので一概にはいえなのですが←どっち笑
あとヲタ活動も多分そうで。
音楽でも演技でもその人自身のことでもそうだけど、
その一つだけを見て何かをわかった気になるのはまた違うのかな、とか思ったりします。
まぁ普通に生きてる中で蓄積されている知識はたくさんあるはずだから
何かを特別に強いることを必ず必要とはしていないっていうのはもちろんなんですけども苦笑
で、
距離をひくという事はようは他を知るという事を同義なのかなって思って。
だったらその瞬間ごとにバタバタするよりも
はじめから自分の中に知識や比較対象できる何かがあればよりいいよな〜〜みたいな。
すげぇ色気のない話・・・笑
所謂「盲目」な状態が人間らしいのかもしれませんが、
恋愛関係でも友情関係でも私はあまりこの距離を意識しない方は苦手です。
自分の中で距離感ってなんかすごい大事。
と言って、自分は相手の壁を壊したくなるし、仲良くなりたい人とは仲良くなりたいですし。
私の好きな距離感でそれぞれの人と対峙したいわ〜とか思ってる気分屋なんですけど←こら☆
あぁ、でもそういう距離感って大事だよね〜って思ってる方とは距離を縮めたくなるなー。
これは自分の好みの人だから仲良くなりたいという事なのか、
絶対に相手自分の領域を侵さないという安心感があるからのどっちだろうか・・・。
おっと話がずれた。
ちょっと色々。
自分の中で色んなものとの距離感が崩れててしんどくなってたので。
これは戒めのためのメモです。
あと、それと勉強しなきゃなって事を絡めちゃったんだけど
やっぱり別々に書けばよかったね orz
うーん。
ほんとさーせん
ちょっとごちゃごちゃしすぎててまとまってないやー。