好きのカタチ

前の前のブログから転載
2009年7月25日


―――――――――――


誰かを好きになること。
好きでいること。

難しいですよね。
あ、両思いになることがじゃなくて
(今普通に変換したら「亮思い」になったウチのパソコンちゃん…笑)



誰が好き?はわかる。
「どこが?」「何が?」ってなると難しい。
っていう、とんでもなく色気のない話。







人は変わるから。

自分も変わるしその人も変わるから。



好きで居続けることって難しいし、
その内にどんどん理由をなくしていって、
完全に刷り込みっていうか、依存になってしまって、

その人自身がというより
気持ちが自分の中でだけで大きくなっていって
その人を想う自分が当たり前になっていって
単にそこから抜け出せないってだけで


何が?どこが?

と聞かれてもわからない事がある。


それを不安に、また残念にすら思うけれど。






「愛」は理性と感情(欲望、衝動)の両方で出来ていると思う。

理性っていうのは
頭で考えるていう事じゃなくて
うーん、人間が何かを「わかる」ことを指すと解釈すると
その自分が頭で考えることと
それだけで説明の出来ない何かが重なって、

もっと複雑で言葉でも何にも表現をする事は出来なくて

だけど「絶対」な何か。

当たり前か。
他にはそんなものはないのだから。
理性を超えて存在しうる何かなんてきっと他には、ありえない。

それが愛だとして。





じゃあ、「好き」は理性と感情のどちらがより重いのだろう。


いや、そんな事はどうでもよくて。

好きで有り続ける事で、
それが長ければ長くなるほど
好きが「好き」じゃなくなっていくと思う。

いや、むしろ好きは好きのままだけど
そんな2文字に定義された何かが
好きの中で形とか色とかがどんどん変わっていくのは間違いない。


それを保てる人はいない、と思う。

だからこそ、「好き」でいられるんだろうと思うし。





案外、人は変化の中でしか生きられないのかもしれない。
それに気付いているか、気付かないか
意識的にそうしているのか、無意識なのかはわからないけれど。

だって自分以外が変わっていくのに
自分だけが変わらないでいるという事は不可能だし。
たったの一秒後であっても私はもう違うワタシ。



だから好きのままでいられるであって。


誰かを好きになって、
その一瞬のままのその瞬間の好きはどんどん姿を消していくけれど
だけどだからこそ
次の好きがあって、
人の皮膚が気がつかない内にどんどん新しくなるように
感情も実は新しくなっていて
だけどそれは、それでも私の中の「好き」のまま


誰かを好きでいられるって事は
何も変わらないって事じゃなくて

変わっていく誰かを変わっていく自分が
その好きの中で新しい好きに変えていくことなんだろう



その大きさや色はいつだって同じじゃないけれど
それをむしろ楽しむぐらいで丁度よく、

今の私で、今のあなたに向き合っていく。
今自分のいる場所から、今そこにいるあなたへ。

そういう意識が一番大切なんだと思う。


一期一会は、同じ人に対しても言えること。
というか「大切な人」に対してこそ抱くべき大切な言葉。







そんなことを思いました。


そして、

私は、なんとなくすばちゃんの事を思い出していた。




数年前にはなかったものを手に入れた人。
私が彼を好きになった時の彼と今の彼は違うのに

だからもう理由を失っているのに


私は彼を、今の彼をこんなに好きだと思う


きっとそれはカタチを変えたのだ
既に別のものになっているのだ
そして私自身も少なくともその上でだけでも自分の中に変化をもったらしい。

それが強くなってるのか弱くなってるのか
大きくなってるのか小さくなってるのか
薄くなってるのか濃くなってるのか

わからないけれど、ね。



そんな、もしかして当たり前というべき事を考えてた。
なんとかコンサート行ける事になったからかな。


あ、何回も言うけどすばちゃんは担当じゃないのですがv笑




今の私で逢いに行こう。
今の彼らに逢いに行こう。




えへv
楽しんできます(*´艸`)